2015年1月18日 茨城新聞 書評


 

「霧の犬」 辺見庸

 

表題作にはヨハネ黙示録の終末の光景が広がる。地獄絵図、といってもよい。文学はイメージであり、ビジョンだ。

本書には現代版黙示録が映像や絵のように描かれている。この世の最果て、うすら寒く寂しいところだ。

「世界」は抽象的な概念ではなく、「そこ」だけが私たちの眼前に在る。作品を覆っているのは霧と無彩色。

 

絞り出された言葉の中に、忍び寄る全体主義と終末を思った。

無蓋貨車で運ばれる戦車、丸刈り頭の女性、恐怖党、行方不明者、ニガヨモギ。

「そこ」では、「住民の多くは街からとおい他の地域にうつり」、人には固有名詞がない。

全体主義は権力が強制するだけではなく、私たち自身の同調、服従、規律が体制を支える。

その考え方を反映してか、受け身形の言葉遣いが意識的に取り入れられている。

 

ストーリーは意味をなさない。イメージのコラージュだ。筋を期待して読むと裏切られる。小説であり、叙情詩でもある。

難解のようだが、極めてシンプルである。すべてのモノや事象は外部に存在するのではなく、人の内部にあるのだから。

霧も人の中にあり流れる。流れるのは霧のほかにも水、歌やピアノ演奏、心。宮澤賢治の詩「ながれたり」が通奏低音で聴こえる。

まさに3・11以降の荒廃が、筆者の心象風景として言葉に置き換えられている。

 

なぜ著者はこのような作品を手掛けたのか。それは著者が宮崎県石巻市出身だからだ。

震災以降深い慟哭の中にたたずんだ著者は、大津波、原発事故により考え方の根本を変えた。

彼はかつて「大震災は人やモノだけではなく、既成の観念、言葉、文法をも壊した」と書いた。また「言葉と言葉の間に屍がある」とも。

つまりすべての言語と概念の砂ぼこりを払い、洗い直したのだ。

 

だが、深いペシミズムの中で著者のしたたかさも感じる。言葉を使うものの強みだ。

3・11の悲歌は、著者と私たちの胸の中を今なお静かに流れ続ける。

表題作ほか短編3編を収録。不安な現代の兆しと気配を体現した傑出した書である。

 

 

文芸評論家 横尾和博

 

2015年1月18日 茨城新聞より

 

 

 

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