「宰相A」 田中慎弥 著
時宜を得た小説だ。
本書で語られる戦後の社会体制や、いまの集団的自衛権行使に向けた法改正を指して言っているのではない。
表層は確かに「もうひとつの日本」の姿を戯画として描きだし、題名も政治小説のように思える。
登場する宰相Aの姿は、著者と出身県が同じ首相ををほうふつとさせる。
だが社会風刺の文学だと考えるとわなにはまる。著者のしたたかなところだ。なぜか。答えは読後にやってくる。
語り手で「T」とも呼ばれる「私」は作家である。
小説が書けず悩んだ「私」は、母の故郷を訪ね墓参りすることで、執筆の糸口を見つけようとする。
列車の中でうたた寝をしているうちに母の夢を見る。
言葉を大切にせよ、言葉で闘え、お話を作り続けよ。母はそう語りかけてくる。
目的地O駅に着くとそこは別の日本。
金髪のアングロサクソン系人種が英語をしゃべり、みな緑色の制服を着た世界であった。
従来の日本人は旧日本人と呼ばれ、居住区に隔離され差別されていた。
「私」は居住区で待望の救世主として迎えられ、蜂起の中心に据えられていく。
異世界へのトリップは、村上龍の小説『五分後の世界』を想起させる。またSFの素材として既視感も漂う。
だが、本書の本質は言葉の力で、読後にそれを強く感じる。
反知性主義がはびこる現代にあって、言の葉こそが他者や世界と関わるしなやかな武器であることを提示しているのだ。
主人公が作家であり、小説を書きあぐねて異世界へ紛れ込み、最後までこだわる「紙と鉛筆」がその象徴である。
またお話自体がTが描く物語、「小説内小説」とも読むことができる。
文学は時代の伴走者ではない。しかし、時として作品が著者の思惑を超え、時代を映す鏡となることもある。
時代を語る薄い言語ではなく、真に自らが獲得した言葉で世界と対峙することが、いま文学者に求められている
かもしれない。時宜にかなった意味はそこにある。
(新潮社 1728円)
文芸評論家 横尾和博
2015年4月5日 北海道新聞より