2015年8月1日 陸奥新報 書評


 

「出来事の残虐 原爆文学と沖縄文学」 村上陽子 著

 

読後、どこからともなく音叉(おんさ)の余韻が聴こえてきた。音叉とは楽器の調律に使う道具だ。

本書の残響は悲しく軟らかで、いつまでも消えず耳の奥に聴こえている。すぐれた小説や評論特有の余韻である。

 

歴史を揺るがす大きな出来事は、遭難した私たち一人ひとりに深い刻印を残す。

本書は副題が示す通り、沖縄戦、広島と長崎の原爆投下をめぐって書かれた作品を論ずる。

 

著者は執筆意図をこう述べる。

「破壊的な出来事の底には、証言の主体となることができない多くの存在が沈んでいる。

その存在が発する呻(うめ)き声、叫び、骨がこすれ合って生じるかすかな音−それらの響きには今にも消えて

いこうとしながら、それでもなお空気を震わせている」と。そしてその響きを「出来事の残響」と捉えた。

それに耳を澄ませば、多くの死者と沈黙を余儀なくされた人々の声なき声が聴こえてくるはずだ。

もちろん4年前の大震災の死者や被災者の声も。

 

例えば本書で著者が耳を澄ましたのは、広島で被爆した体験を描き「屍(しかばね)の街」などの作品を書いた大田洋子。

今では忘れられた作家だ。大田は戦前デビューして広島で被爆。

その体験を必死の筆で書いたが、文壇からは悪評で現代も冷遇は続く。著者の大田の生きざま自体にまなざしを向ける。

 

他にも取り上げられた作家は、林京子、又吉栄喜、目取真俊など多数存在するが、

著者はこの秀逸な作品群が日本文学の周縁に位置付けられてきたことへ異議を申し立てる。

 

戦後70年の夏、改めて「自分のものではない痛みを受け取ることの重要性」を深くかみしめた。

私たちは時の流れの中で出来事を忘却するが、忘れてはならない死者を弔う厳粛さや礼節であり、

死者の沈黙に耳を傾け、作家を媒介として書かれた言葉と向き合うことだ。

故に本書は、安易に共感や同調に流れるのではなく、文学として悲傷への思いや共苦のモチベーションの本質へ迫る。

著者の問題意識の鮮明さとしなやかな感性は、荒れてささくれだった時代に一条の光をあてた。

 

(インパクト出版会 2592円)

 

 

文芸評論家 横尾和博

 

2015年8月1日 陸奥新聞より

 

 

 

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