2016年3月6日 神奈川新聞 書評


 

 「象は忘れない」 柳 広司 著

 

読後、言葉を失った。

東日本大震災から5年。地震、大津波、そして何よりも福島の原発事故は予測を超えた衝撃だった。

だが悲しいことに記憶はだんだんと風化する。

昨今では、忘れさせよう、なかったことにしようとの政治的な意図も感じられる。だが忘れてよいのだろうか。

 

そのような時期、闇に一閃の光の矢を放ったのが本書である。

5編の短編すべてが福島原発事故に翻弄される庶民の姿を描く。

原発事故さえなければ普通の暮らしを送っていたはずの人々である。

彼らの人生は事故で歯車が大きく狂う。

 

仮設住宅での鬱屈、極限の日々、都会の暮らしとの極端な落差など。

現実世界にイメージを重ねた作品は、読者の心に傷を付ける。

言葉を失った理由は、自分の浅はかな知識や貧困な想像力故だ。

 

題名は英語のことわざで「象は非常に記憶力が良く、自分の身に起きたことは決して忘れない」から。

5編には、それぞれ能の演目が題名として付けられている。

 

冒頭の「道成寺」は福島原発の城下町で、電力会社の孫請けで働く地元出身の若者が経験した原発事故。

よその土地からきて知り合った彼女が、事故前に原発の危険性を指摘するのだが、彼は意に介さず、

彼女とも破局を迎える。その2週間後に東北地方を巨大地震が襲う。

 

彼は事故直後の福島原発3号機の圧力の上昇した格納容器のべント(排気)のために決死隊として原発深部に入り、

凄惨な様子を目撃。

原発で吹き飛ばされ、被ばくした彼が病院のベッドで幻視するのは、白い着物に烏帽子姿で波の上に踊る彼女の姿。

 

その他、本書には助けられたかもしれない命を置き去りにした若い男の苦悩を描いた「黒塚」、

放射能から避難して都会に住む孤独な母子の感じる違和を描いた「卒塔婆小町」など、読み応えある作品ばかり。

 

わずか5年で忘却する私たちは、記憶力のよい象以下なのか。

著者のこん身の思いや静かな怒りが伝播し、深い共感を呼ぶ。

 

(文芸春秋・1458円)

 

文芸評論家 横尾和博

 

2016年3月6日 西日本新聞より

 

 

 

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