「猿の見る夢」 桐野 夏生 著
また著者の毒気にあたってしまった。
初期作品の女探偵村野ミロのシリーズから「OUT」、最近の「バラカ」まで、登場人物たちの小さな悪意や欲望が、
桐野ワールドを構成する毒素だ。本書も毒が世界を覆いつくす。
誰もが持つ渇きを凝縮させ、日常の臨界点を踏み越えていく、ふつうの人間たちの心理を描く筆が巧みだ。
本書は59歳の男と、彼を取り巻く女性たちの話。
男は大手銀行から大手ファストファッション・チェーンに成長した企業に出向中で、取締役の地位にある。
会社は業績を伸ばし順風満帆。
創業者の会長は80歳まぢかで、会長派の彼はなんとか常務に昇進し、65歳まで居残りたいとの願望を持つ。
私生活では郊外のマンションに妻と次男と住み、銀行時代の愛人とは長年の関係が続く。
病気の母は都内の住宅地に妹夫婦と住み、母亡き後は200坪の屋敷を分割し自分の長男夫婦と2世帯住宅をつくる考えだ。
だが、事件は会長の娘婿である社長のセクハラ問題がネットに出回ったことから始まる。
会長からその処理を任された男は、会長秘書の女性に色目をつかいながらも、事件に巻き込まれていく。
一方家庭では彼への不満が鬱積(うっせき)した妻が、謎の占い師の女性を自宅に住まわせる。
ストーリーの動力は男の欲と女性たちの復讐だ。
しかし破綻へ向かう男が抱える定年や老後の人生設計を「甘い」と笑うことはできない。
高齢社会下で誰もが通過する道だから。
本書で占い師は日光東照宮の三猿の教えを示す。
三猿とは事なかれ主義の寓意(ぐうい)ではなく、孔子が「論語」で示す「礼なきことは見ない、聞かない、言わない」
という意味だという。
礼なきとは「礼節にそむくこと」であり、「人間は愚かしくて、すぐ自分の欲望に負けてしまう」ものである。
インモラルが横溢(おういつ)する今、礼節と逸脱の境界線はどこか。
私たちのささやかな願望は妄想なのか。
著者が現代と向き合い、提起した問題は誠に深い。
(講談社・1836円)
文芸評論家 横尾和博
2016年9月18日 西日本新聞 より