2017年1月22日 河北新聞 書評


 

 「i」 西 加奈子 著

 

いま世界はトランプ現象が象徴するように格差と差別に揺れている。

そのポピュリズムや反知性主義の根源には知性と教養、品性と想像力、思考力の欠如がある。

本書は主人公にその逆の道を歩ませた。

つまり「思うこと」や「考えること」を大切にする生き方を背負わせたのだ。

ポイントは題名に比喩される「i」。数字でいう「虚数」のこと。虚数とは実在しない数のことである。

もちろん英語の「私」や日本語の「愛」にも掛けている。

 

主人公のアイはシリア人だ。幼いころ子どものいないアメリカ人ダニエルと日本人綾子夫婦の養子となる。

経済的に恵まれ、教養あふれる夫妻のもとで、なにひとつ不自由なく暮らす。

しかし高校1年の数学の授業で、「この世界にiは存在しない」との教師の言葉に衝撃を受け、言葉はアイの心をその後も

支配し続ける。

自分の存在根拠、アイデンティティーが崩れ、同時に「恵まれた環境にいること」に罪悪感を覚えるのだ。

それはニューヨークの9・11テロ、3・11東日本大震災などの事件・事故、災害、戦争などの報道に触れたときに、

アイの心を暗たんとさせる。

「なぜ自分が犠牲者ではないのか」と。

そして彼女は自分のノートに世界で起きた出来事の死者数をメモしていく。

高校時代に親密になったミナとは心を開きあう関係が続く。

大学院へ進んだアイは年上の男性と結婚するが、体外受精した待望の子どもは流産。

母国のシリアでは内戦が始まり、彼女の精神は危機に瀕する。

 

アイは誠実に時事問題と向き合い残酷、残虐な事態の犠牲者の声に耳を澄まし、真っすぐに不条理と対峙する。

その真摯な姿勢は、ときとして裕福で安全地帯にいる者の傲慢とも感じられる。

だが、彼女の思いは私たちが忘れてしまった哲学や宗教の根源に存在するささやかな倫理のようなものを示してはいないか。

大きな世界と小さな身の回りの事象のピースをつなぎ合わせる思考回路こそが、一番求められているのだ。

 

(ポプラ社・1620円)

 

 

文芸評論家 横尾和博

 

2016年12月25日 西日本新聞 より

 

 

 

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