2017年4月8日 陸奥新報 書評


 

 「名誉と恍惚」 松浦 寿輝 著

 

 700ページに及ぶ長編だが、ミステリー調で一気に読ませる。動力は展開のおもしろさ。だがそれだけではない。

羨望(せんぼう)、嫉妬、劣等感などの登場人物たちの負の因子が横溢(おういつ)することで、人間の卑小さが浮かび

上がり、人間とは何かを問う文学の本質が描かれている。

 

 時代は1937年、場所は中国の国際都市上海。共同租界とよばれる外国人居留地で日本、英国、フランスなど各国が中国

進出の足場にしている場所だ。

主人公は20代後半の若い日本人警察官の芦沢。警視庁から派遣されて公安部門を担当している。

 

 時局は盧溝橋事件が起こり、泥沼の日中戦争は拡大の一途をたどる。

戦線では兵士が辛酸をなめているが、魔都上海では利権に群がる人々の欲望が渦巻いている。

 

 芦沢は陸軍の特務機関の嘉山少佐から、“上海マフィア”頭目との秘密裏の仲介を頼まれる。

彼はその依頼を受けたことで事件に巻き込まれ、やがて犯罪者として祖国の官憲から追われる身になり、

苦難の逃亡生活を続ける。

 

 彼には出生の秘密があり、事件を契機に自らのアイデンティティーを模索し、迷いながらも生き延びる道を選択する。

芦沢との絡みで時計店の老人、マフィア頭目の若く美しい妻、ロシア人の美少年ら魅力的な登場人物が物語に花を添える。

 

 戦時下の混乱のなかで国や民族、故郷の意味を考えさせる重厚な作品だ。いま世界では反知性主義、ポピュリズム、

愛国と排外の流れが胎動しているが、80年前の上海に思いをはせることは、歴史を学ぶことでもある。

 

 本書のテーマは「生きること」であり、生の希薄さを感じる現代人に警鐘を鳴らす。

逃亡中の芦沢が「空っぽの自分」を認識し、現実の生々しく真新しい、あらわな世界、と感じる長江(揚子江)の河辺の

情景が印象的だ。

それを作者は題名に託し、「恍惚(こうこつ)」と名付けた。

 

 河と自我の対比はドストエフスキーのモチーフでもある。文学の香気がここに在る。

 

(新潮社・5400円)

 

文芸評論家 横尾和博

 

2017年4月8日 陸奥新報 より

 

 

 

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