2018年3月 西日本新聞掲載  


 

 「百年泥」 石井遊佳 著

 

 今回の芥川賞に輝いた小説だ。同時受賞の若竹千佐子同様、昨年の文芸誌新人賞の1作目が芥川賞。それほど刺激的な作品かと疑問符だったが、やはり毒気に当たった。
 毒の原因は、川の氾濫で流れ出したインドの百年堆積した泥。その泥と一緒に横溢した「何か」である。
語りは「私」という日本人の女性。多重積務者で仕事を求めてインドにきた。IT企業の日本語社員教育の講師である。この会社は日本に支社を置き、取引のために日本語が必要なのだ。付き合っていた男に金銭を騙れローン地獄に陥った彼女は、やむなく元夫に助けを求める。人材派遣ブローカーの仕事をしている元夫に金を借り、仕事を紹介してもらい、教育経験もないのにインドに渡ったのだ。渡印後3ヶ月半、川沿いにあるまちは豪雨による100年に1度の大洪水に見舞われた。南インドのチェンナイという地である。日本語を習う企業の若手社員は男性7人。みな個性的どこかとぼけたようなキャラクターの持ち主ばかり。彼女は洪水後、川の対岸にある会社に出勤しようとアパートを出たが、外はあふれだした泥と喧騒で祭りのような非日常空間と化した。橋を渡り会社まで行く途中、彼女は母の記憶や少女期を思い起こし泥のなかから現れる人の幻想を見る。
 本書が単なるインド体験記と決定的に異なる点は、記憶や幻想の往還にある。彼女の思春期は母親同様無口で、結婚後も元夫から沈黙をなじられる。また彼女の過去は一見男と金にだらしのないようにみえる。子どこのときからぼんやりとした性格と自閉のの中にいるからだ。だがインドの風土と百年の泥が彼女を変えたのか、本書のなかでの彼女は饒舌である。
喧騒と猥雑、汚泥、ほら話、寡黙と饒舌が水と泥とともにあふれ出した。それが横溢の正体。小説の終わり方がうまい。
「こんど、いっしょに海へ行きませんか」と誘う学生に「いやです」と即座に答える「私」の鮮やかさが心に残る。    

 

文芸評論家 横尾和博

 

2018年3月 西日本新聞掲載 より

 

 

 

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