文藝同人誌の最前線 〜ブンガクの未来〜

文学に未来はあるか。
いま私が考えている大きな問いだ。未来とは何年くらい先をイメージするのか。
また文学の概念とは現在の「純文学」のことを指すのか。
そのような問いを自ら発しながらも疑問や答えに窮することは多々あるが、
今回から「文芸同人誌の最前線」と謳って、同人誌のなかで目についた作品をネット上でとりあげようと思う。


■ 第6回 2019年2月

 「描写」についての質問を受けることがある。
 描写とは物事、出来事、自然、他者など小説の登場人物や語り手が、心に感じたことを個性的な形容や比喩表現で言葉に潤いをもたせることだ。個性的な形容や比喩とは心象風景とも言い換えてもよい。
 同人誌作品にはこの「描写」にお目にかかることがない。大半は説明・叙述で終始する。会話文は入っているが生き生きとしていないのだ。
その原因は何か。ストーリーこそが小説だと勘違いしているからである。ストーリーは説明文で書くことができるのである。ストーリーの要素は純文学においては「哲学的テーマ」「描写」の次にくるものだ。
 文学は人間存在の不可思議を描くのが王道。登場人物の心理の綾を色濃く描くのが描写の本質である。

 大川龍次「時は彼方に」(「小説と詩と評論」338号)は広島の被爆体験で、父母を亡くした姉と弟の話を、弟の視点で描く。オーストラリアに移住した姉は死期を前に「戦時中より戦後のほうが死にたくなる程辛かった」と述懐する。もちろん被爆者への理不尽な差別だが、その言葉の重みを噛みしめるべきだ。福島の原発被害者にも重なる問題である。
 粕谷幸子「我が家の双眼鏡」(「丁卯」44号)、は随筆に分類されているが、小説のように思える。若いころの結婚から夫との生活を回顧する。同人誌作品には自分のことを書いた作品が多い。仮にそれを自分史、自伝小説、私(わたくし)小説と分類してみると、粕谷の作品は自伝小説として読むことができる。この三つの分類をここで詳細の述べるつもりはないが、作者はその違いを理解している。つまり自分史と小説の違いは「虚」が存在するかどうかなのである。
 黒羽英二「夜空を焼く巨大火球に目も眩んで」(「全作家」112号)は掌編ながら、戦争中の体験を生き生きと描く。題名もつけ方もうまい。体験が文学に昇華させる力がある。
体験といえば高橋ひとみ「愛・この不可解なもの」(「文藝軌道」15号)は作者の一連の介護もの。介護の仕事を素材とした作品はこれからも多く生まれるだろうが、その先鞭であり施設で働くケアマネが主人公で人間模様が興味深い。
新しく創刊された「茶話歴談」は、歴史・時代小説を主として関西を中心に発足した。八編の小説それぞれ素材がおもしろい。時代小説は歴史上の人物はそれぞれキャラクターが読者に想定されているだけに、その像を描くのは難しい。たとえば織田信長像は広く読者に知られている。それとかけ離れたキャラクターは設定しにくい。また闘いなどの出来事も同様だ。あとは物語力と描写力が勝負である。その点この八編はどの作品も優れている。

本欄は私が寄稿している全作家協会の「全作家」の「文芸時評」とは別である。同誌のコンセンプトはなるべく広く、をキーワードにしている。また本欄では特筆すべき何かを内包する作品を中心に少数精鋭で取り上げる。同人雑誌をお送りいただける方には、私どもの事務所に「お問い合わせフォーム」でコンタクトをとってほしい。掲載はご希望にそえないこともあるのでご了承いただきたい。


                                                           (了)

 

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