文藝同人誌の最前線 〜ブンガクの未来〜

文学に未来はあるか。
いま私が考えている大きな問いだ。未来とは何年くらい先をイメージするのか。
また文学の概念とは現在の「純文学」のことを指すのか。
そのような問いを自ら発しながらも疑問や答えに窮することは多々あるが、
今回から「文芸同人誌の最前線」と謳って、同人誌のなかで目についた作品をネット上でとりあげようと思う。


■ 第8回 2019年4月

 会話文の方言使用について、ひと言述べる。
 同人誌掲載の小説のなかには、会話文に方言が使われることがある。文章が生き生きとしてとてもよいことだと考える。確かに今の時代、人と話すとき標準語を使うことも多いだろう。しかし言葉は生き物だ。東北弁をはじめ、土地には土地に根差した言葉がある。
 中央主権国家を目指した明治時代、標準語普及は国策となり小学校での方言使用が禁止される。共通の言語の必要性はあったかもしれない。だが小学校で方言を使うと子どもたちは「方言札」を首からぶら下げられて罰とされた。明らかに行き過ぎである。
 メディアの普及により、いまでは関西弁がはやりだが、これも使い慣れていない他の地方の人が使うと、聞き苦しい。渋谷でよくみかける若者たちの風景だ。
 文学こそ自由な方言を大事にしなくてはならない。そのためには地域に根差した同人誌の役割は重要であろう。
 会話文の方言使用を意識的に取り入れてはどうか。

 岬龍子「崩れる」(「九州文學」45号)は掌編で、60歳を過ぎた女性が主人公。大きな地震を体験した後、日常生活の不安定な心理を描いて読ませる。達者な書き手である。
 同じく掌編の白石すみほの掌編「雪の声」(「ふたり」21号)は、成人式を迎えた女性の雪のなかでの情景を鮮やかにきりとる。その色彩感覚が見事。掌編小説は短いなかでのストーリーの決め方、そして情景の濃度に左右される。その典型である。
 堀田明日香「橋を渡る」(「じゅん文学」99号)は、赤子を背負う若い母親と女子高校生の二人が主人公。そてぞれの思いを語っていく構成でキーワードは雨と橋だ。人の眼には見えない橋、それを渡るとはどのような比喩なのか。書かれていない濃密な背景に想像力を馳せる手法が見事。

 【お知らせ】
 本欄は私が寄稿している全作家協会の「全作家」の「文芸時評」とは別である。同誌のコンセンプトはなるべく広く、をキーワードにしている。また本欄では特筆すべき何かを内包する作品を中心に少数精鋭で取り上げる。同人雑誌をお送りいただける方には、私どもの事務所に「お問い合わせフォーム」でコンタクトをとってほしい。掲載はご希望にそえないこともあるのでご了承いただきたい。


                                                           (了)

 

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